家庭の事情もあり高校進学を断念。
北見職業訓練校自動車科に入学が決まっていたが、中学校柔道部監督の三浦昭先生から、高校進学を
強く勧められる。
 親を説得し、網走高校に新聞奨学生として入学。

朝4時から7時まで新聞配達、そして学校、そして帰ってから夜6時から10時まで仕事。夏休み冬休みなく3年間を過ごす。

 そして担任の小松重夫先生から将来を嘱望され大学に進学を決心する。
■ 鳥越良孝本人談

 
当時の職訓を出ると、大卒以上の給料が貰えます。少しでも親孝行をしたい、進学だけが人生ではないと思っていました。
卒業間近に高校へ進学する同級生の話を聞くと、無性にさみしくなりました。
それを分かっていた三浦先生が、「高校に是非行きなさい」と言われ、「お金がない」と言うと、「新聞奨学生があるし、俺もなんとかする。」と、親を説得してくれました。
私の人生にとって大きな岐路でした。恩師は有り難いものです。今も感謝しております。

 そして高校に入学しました。当時の新聞配達は休みがなく、辛くは有りませんでしたが、「年に一度、朝遅くまでゆっくり寝むりたかった。遊ぶ時間が有ったらいいな。」と、友達を見て思ったくらいです。

 しかしイヤな思い出もあります、私は新聞店に住み込みで働いていて、そこに友達が汽車時間まで待たしてくれと来る。そのうちにタバコを吸う場所になり二度、責任をとって停学になりました。
友達は皆、「俺の名前だけ言わないでくれ」と頼まれ、「後はなんでもするから」と言われたが、二度まで裏切られ友達を信じられなくなった。
 苦労をかけたのは、学校に二度まで呼ばれた父親でしたが、一言も私を責めませんでした。それからはタバコは止め、今でも吸っていません。人生の反省である。


 そして、国士舘大学政経学部に入学。また新聞奨学生として働きながら学ぶ。
応援団にも入団し、東都6大学野球、箱根駅伝などの応援をする。

 四年生の時、第56代団長になる。又、全日本学生応援団連盟委員長にも就く。
NHKはじめ各テレビに出演、週間プレイボーイ他週間誌にも載り名を馳せる。

 団長当時、国士舘大学と他大学のもめごとの仲裁に入り、無期停学になるが誤解と分かり、無事卒業。
そして、日本大学法学部3年に学士入学、そこで粕谷茂代議士と出会い、政治の道に入る。
 
■ 鳥越良孝本人談

 朝夕は新聞配達、そして昼間は大学と応援団、4年間は充実していました。
先輩や後輩にも恵まれ、応援団に命賭けで青春を駆け抜けました。
あなたには、そのような思い出が有るでしょうか。

 4年の時、不幸な出来事を私を襲いました。私は団長でした。
自分の大学と、他の大学が抗争事件に巻き込まれ、応援団は解散、私は濡れ衣をかけられ逮捕(後に不起訴)無期停学になってしまいました。
 私は仲裁に入っただけなのに、なぜ逮捕されならなくてはならないか、と悔しかった。
卒業後は教師を目指していたが、断念せさるを得ず、人生とは何かとつくづく考えさせられました。

 その時に法律を知っていれば、と思い国士舘大学を卒業後、日本大学法学部3年に学士入学、そこで粕谷茂代議士と出会いました。
心から信じられる人が現れた、この人ならば、と選挙の手伝い、そして秘書になりました。

 その1年前(S53)に、不幸な出来事が起こったのです。
2才年下の弟・幸人が上京し、大東文化大学に入学し、新聞配達をしていたが11月に過労で倒れた。
「頭が痛い」、と新聞店に話しをしたのですが、病院には連れて行ってもらえず、風邪薬を渡し、アパートに寝かしたまま。
3日も休んで出てこないからと、新聞店の人が見に行ったら、すでに危篤状態になっていました。

 緊急病院に運ばれましたが、インターンの先生しか居らず、担当の医者に診てもらったのは4日後。
完全に手遅れでした。入院して10日目に家族の見守る中19才の生涯の幕を閉じたのです。
過労により、脳に風邪のウィルスが入った為でしたが、早期発見で完治するものでした。

 最愛の弟の死は、家族にとって大変悲しい出来事になりました。
私は悲しさもさることながら、「お金が有ったら、こんな死に方はしない。」と悔しかった。
神も仏もいないと思いました。
 将来、政治家になり、弟のような人を救いたい。その様な人達に、少しでも手を差しのべてあげたい。と決心しました。
 私にも、身内の者や、仲間が死ななければ、このような気持ちは分からなかっただろうと思います。

高校を卒業する頃の弟・幸人